昭和46年6月2日9時15分3000グラムで神奈川県茅ヶ崎市の関口産婦人科で生まれる。
右は父、左は母。両親とも絵描きである。

  

一人遊びは何か創作する事だった。
左はヴァイオリニストの祖父。
才能教育研究会で鈴木鎮一先生とスズキメソードの教育法を広く普及する。
愛を基調としてヴァイオリンを通じて子供達の才能を伸ばしていく教育で幼児教育に貢献する。


  

同じアパートで隣のお兄ちゃんが野球を始めたので
ついでに僕も小学校入学と同時に野球を始める。一人っ子の僕が団体生活に慣れるまでたいへんだったらしい。
練習に行くのを嫌がる僕を、自分で言い出して始めた事だからと母は頑として家から追い出したらしい。
練習や試合でも座りこんでボールを追っかけないでとにかくベンチにいる事が好きでこうしてニコニコして帰ってくる。
とにかく問題児だったようだ。




小学校6年にはキャプテンになる。監督、コーチが見捨てず野球以外の面までビシビシ指導してくださったおかげである。
甲子園でPL学園の桑田選手、清原選手が一年生で鮮烈にデビューしたのもこの頃。
たいへんな憧れを抱き夏休みになると毎年一人で大阪のPL学園に行き練習を見学しに行ってました。



  

中学三年の頃。浜須賀中学の野球部でもキャプテンをつとめる。
湘南地区で三位の成績をおさめる。
上は中学の野球部同級生の集合写真。前列左から3番目。
また三年になると同時に硬球に慣れるため茅ヶ崎シニアリーグに入団する。

    

高校時代教室にて。横浜商業高校(Y校)に入学。
当時野球部は連続して甲子園出場してる時で部員の多さには度肝をぬかれました。一年生の部員だけでも80人はいました。
野球部の中で監督、コーチ、先輩方、同級生から様々な事を勉強させていただきました。

    

  



   

高校三年の文化祭の時。芸術の選択科目で音楽をとっており授業でギターが課題であった。
その中の男子でバンドを組みました。僕は授業でやってるギターもろくにひけず、他の楽器もできず、
僕の係(パート)がなかったのでリーダーの日比くんが一曲だけヴォーカルとして係を与えてくれました。
文化祭当日、Y校の講堂でのライブはたくさんの同級生や生徒の皆さんがきてくれたおかげで、生のステージを初めて経験して
今まで味わった事のない不思議な緊張感を味わいました。

  

青森大学野球部時代。右写真は東北地区の決勝戦東北福祉大戦に出発する前夜だったと思います。
福祉大にはドジャース の斎藤隆投手、阪神の金本知憲 内野手、矢野燿大捕手、横浜ベイスターズの宮川一彦内野手、福岡ダイエーホークスの作山和英投手、浜名千広内野手がいました
ある意味、大学時代の野球生活で一番想い出に残ってるかも。




ねぶた祭りにて。野球部のみんなと。



教育課程の最終段階の実習。
教育実習の授業の前に同じ実習生にカメラを押してもらいました。
母校の浜須賀中学にて。

  



大学4年生の時バイトしたBARウエスタンにて。
津軽弁を覚えたのもここでの事。人見知りの激しい僕がお店に慣れるまでマスターをはじめ
お客様方からよくしていただきました。
いろんな人間模様を見れた場所です。貴重な経験をさせていただきました。
残念なのはお店は今はもうないことです




卒業後、日本ロジテム株式会社に入社しサラリーマンを経験する。



役者を志し日本ロジテム株式会社を退社後、
屋台のラーメン屋、観光地のホテルの皿洗い、
川崎・堀の内のお風呂屋さんの呼び込み、画廊、
その他たくさんのありとあらゆるバイトをしてきたが一番長かったのが
左の写真の飛松建設時代。
これは下水道工事をしている時で市に提出する写真ですが
無意識にカメラ目線をしてしまい大半がボツ写真ばかりという事が判明しました。




演劇の修業をさせていただけるようになり東京で一人暮らしを始めてまもない頃、
財布の中には何十円しかないなんて時がよくありました。
そんな時、お兄さんがわりの兄夫婦には食事の事から何から何まで世話になってきました。
そんな兄はTAISHOという名前で歌手であります。ワンダラーズ、DOGFIGHTというバンドのヴォーカルを得て現在、
TOUGHBANDのヴォーカルでありリーダーとしてステージに立ってます。




そして最後に初舞台間際の頃でしょうか、要と。
学生時代から彼には何度も助けられました。たった一人の大事な親友です。
以上、生後から役者を志すまでのプライベートアルバムでした。

Back